『丸屋商社之記』(現代語訳)
だいたい事業を行うには、まず自らの役割と地位を考えなければならない。
今、私 の地位を考えると、官庁に所属して政治を行う責任があるわけではない。
また奴隷と なって他人に仕える義務があるわけでもない。
いかなるものにも束縛されず、自由に 自分のやりたいことができる一人の日本人である。
すでに日本人としての名誉を負っ ているのなら、その日本人としての役割を考え、日本全国の繁栄をはかり、同国人の 幸福に寄与しないわけにはいかない。

以前、鎖国の時代にあっては、人はみな自国の有様に満足し、さらなる進歩の志を もつ者がなかった。
その結果、却って自負驕慢の弊害に陥り、この国を「武の国」と 称したり、「正義の国」と唱えたり、あるいは全ての国のなかでもっとも尊い「神の 国」という者があったり、あるいは全てが備わっている「富の国」という者があった りして、自分の国を尊び崇めることの度が過ぎて、いたずらに虚名を掲げて独り悦に 入っている状態であった。
しかし今日、外交が盛んになるにあたっては、その虚名を すてて実質を求めないわけにはいかない。

そこでこの国の情勢を考察すると、近年になって海軍・陸軍の制度を一新したけれ ども、いまだに西洋諸国の隆盛に及ばないことは、人の明瞭に知るところであるから、 独りわが国のみをもって「武の国」と称すべきではない。
世界のどの国も正義を放棄 して建国したところなど聞いたことがない。
西洋諸国はすでに建国されていて、その 名称も実質もあるのだから、みな不義の国ではないことは明白である。

そうであるの なら、独りわが国のみをもって「正義の国」ということの正当性はない。
西洋諸国は、 それぞれが独立した一つの政府として肩を並べ合い、互いにその国威を維持し拡張し ているのであるから、独りわが国のみをもって、全ての国のなかでもっとも尊い「神 の国」と唱えることはできない。

自然の物も人工の品も、その種類はどの国において も同じというわけではないので、独りわが国のみをもって、全てが備わっている「富 の国」と言うことはできない。
虚心坦懐に世界の形勢・状況と向き合い、その文明の表裏を考察すれば、わが日本 国が数百年間にわたって鎖国の睡眠をむさぼっているうちに、西洋諸国に先行されて しまったのであって、わが国こそ却って西洋諸国の有様に及ばないのである。

これが すなわち、私の常に憂慮するところであり、その憂慮の原因は、この国の先人たちが 数百年の安眠中に醸成し今に遺伝する、国家的害毒にある。
今この害毒を一掃して西洋文明の仲間入りをし、一緒に進歩を競い合おうとするに は、最初から行うべきことが多く、その事業は本質的に難しい。
文学の研鑚を積まな ければならない。
武力を備えなければならない。

あらゆる技術・芸術のうちその一つ として疎かにできるものはないけれども、とりわけ重大で、これを疎かにするとすぐ にでも禍いとなるものが一つある。
それが商売である。

1そもそも外国人がわが国にやって来たのはただ親睦のためではない。
その本質は貿 易を行いたいからである。
最近、わが国の人に接する外国人の傾向を見てみると、文 学を伝える者があり、技術・工業を教える者があり、法律を講義する者があり、武芸 を演じる者があるけれども、それらは外交の枝葉末節であり、彼らの最大の目的が、 貿易によって利益を追求することの一事にあることは、最初から論じるまでもないこ とである。

しかし今この貿易・商売の権益を外国人に独占され、黙ってこれを傍観するのは日 本人である私の義務に背くといわざるを得ない。
一度、貿易の権益を失い、それが外 国人ににぎられると、外国人に依頼して元金を借り、外国人の会社で働かされて、あ るいはわが国の会社に外国人を招聘してこれを尊重し仰ぎみて、その指示の下に奔走 するといった情勢に陥ることになる。
もしもそんな事態になったら、国家の災害とし てこれ以上のものはない。このような国は、最早国ではない、と言っても過言ではな い。

国が国ではなくなると、文学・技術・芸術、そのどれも役に立たなくなる。
これが 私の考えであり、私は商売をもっとも重大な急務として、文学・技術・芸術は他の学 者に任せ、政治の事務は官庁に在籍している人物に譲る。 私はもっぱら商売に従事し、 日本国にその商法によって独立の地位を得させ、日本人がその幸福を失わないように する。
そしてこれこそが、私がその役割に恥じないよう企図する理由である。

どのような職業も、実行と熟練なくして成功するものではない。
しかし私は今まさ に会社を結成し商売を営もうとしているが、これまで商売を学んだことはなく、また 馴れ親しんだこともない。
これを学ぼうにも世間に商売学校が設立されたという話を 聞かず、また簿記を教える人さえいない状況をどうすればよいのか。
そこで敢えて言うが、わが社には英語の書物の表題が理解できる者がおり、また薬 品の名称を知る者がいるので、この種類の商品をもって事業とし、わが社をもって商 売学校とみなし、またわれらが実際に業務を行う道場として、何年にもわたって努力 を続ければ、次第に商売の道を学び取れるのではないだろうか。
これがすなわち、商 売については無学文盲である私が断固決意してこれに従事しようとする理由であり、 決して一時の隆盛を企図するものではない。

だいたい人の生業というのは、世間で不足・不自由しているものを提供し、自分が 不足・不自由しているものを満足させることにほかならない。
他の不自由を満たすこ とが大きければ、自分の幸福を得ることもそれに従って大きくなるのである。
だとす れば、どのような生業を行えばわれらの力がよりよく他人の役に立つかを議論しなけ ればならない。

ふり返ってみると、近年、世間は文明開化が始まり、諸々の技術・芸術もまた、進 歩をはじめ人間の幸福を増大させる時代になりつつある。
けれども、いまだに何事に おいても備わっていないものが多く、特に人の世の急務である教育や命を救う職業の ようなものにおいて、洋書に乏しく、あるいは薬品や医療器具に乏しく、不自由が少 なくないといわざるを得ない。
そこで、わが社はまずこの種類の商品売買をもって専 業にしようとするのである。

2人間の業務には盛衰が常ではないとはいうけれど、その盛衰を生じさせる原因は、 事物に正しい道理によって対処するか、それともこれに反するかの違いにある。
従っ て一人で事業を独裁する場合は、誤りを犯して正当を失っても、他からこれを批判し たり正したりすることができない。
このために危害が生じるのである。

同志が会社を結成し、互いに助け合い互いに是正し合い、これによって正しい道理 から外れないよう努めれば、自ら転覆する患いを防ぐことができる。
今、同志数人と はかって元金を出し、あるいはその労働を提供して一商店を開き、「丸屋商社」と名 づける。その元金を出した人を「元金社中」(株主)と名づけ、その労働を提供する 人を「働社中」(従業員)と名づける。

「働社中」(従業員)の心得
われら「働社中」には商売に熟練する人もなく、また使用できる元金もあまり多く はないので、世の中の有力な人と同じような事を行うと転覆することは必然である。
従って、努めて節倹を守り、誠実に事業を営み、信用をもって天の助けを招き寄せ、 倹約をもって経済状態を維持し、ただただ会社の末永い存続と堅実を企図して、それ ぞれが互いに助け合って将来の幸福を願うべきである。

合衆国の貨幣の銘文は次のように言っている。
すなわち、力を合わせれば立ち、分 散すれば倒れる(United, we stand. Separated, we fall.)、と。
また西洋の古いこと わざは言っている。
ゆっくり急げ(Make haste slowly.)、と。
どちらも商業について の戒めではないけれど、われら「働社中」の人がこの言葉を心に留めれば、転覆する 恐れはないであろう。

また、ある老人が話すところによれば、世間の商家は一度の商売で大金を得ること がしばしばあるが、十年経って数万の金を残している人は稀である。
これは商人が目 を付けるべきところである。

損失があった時の心得
おおよそ商業で危険や損害をともなわないものはない。
従って長い年月の間には災 害もあれば損失もあるものだと思うべきであり、これを常に心に留めておかなくては ならない。

もしも不幸にして災害に逢っても、また商売上の損失があっても、あわててこれを 回復しようと思ってはならない。
また、いたずらにこれを後悔してもいけない。
その 損失が発生した原因・理由を追究して、これを今後の戒めとすれば、却って安全の基 ともなり、損失はいつでも回復できるのである。
そうであるなら、数年に一回ずつ損 失が発生しても転覆には至らない。
もし大いに損失を後悔し、ただただこれを回復し ようとはかるときは、多くの場合、最初に損失を発生させたのと同じ原因・理由によ って同じように損失を重ねるものである。

私が世間の大きな商家の転覆を見てみると、 多くの場合、最初の損は少なく身代を傾ける程ではないのに、急にその損を取り戻そ うとして、二度目、三度目の損で破滅するのである。
従って商人は一度の利益を誇ることなく、また一度の損失に動揺してはならない。
唯一恐れ慎むべきは、日々月々少しずつ発生する損失である。一重に希望すべきは、

3連綿と続く少しずつの利益である。
一度の損失は連綿と続く少しずつの利益をもって 補填できるが、連綿と続く損失は一度の利益をもって補填することは困難である。

意外に利益があった時の心得
だいたい人というものは自戒や慎重さによって幸福を得、油断によって災害を生じ させるものなので、善きにつけ悪しきにつけ変化があれば、いっそう謹んで慎重さを 加重し、注意すべきである。

例えば、自分の商品の輸入が欠乏するかあるいは需要が 急に増大して、利益が通常を超える場合がある。
このような場合、将来必ず輸入が超 過してその商売では一様に利益を得にくくなる時期が来ることを予期し、その覚悟を しておかないと、破産することがある。

明治 2 年(1869 年)正月 この冊子を上梓するにあたり、福沢諭吉の『童蒙教草』の一章を抄写し、版権者に要請してここに追加する。
フランクリンはその遺した文章でこう言っている。
すなわち、富を得る方法が平易 であるのは都市へ行く道のようである。
ただ二つの言葉をもって言い尽くせる。
すな わち「労働」と「倹約」である。
時間を浪費してはならない。
金銭を浪費してはなら ない。
この二つを巧みに使うべきである。

「労働」と「倹約」を放棄して成功するこ とはないが、この二つを守れば成功しないはずがない。
少年がすでに働き、かつ倹約 していれば、この他に富の蓄積を助成するのは、「綿密」と「正直」の二つである。
勉強はあたかも幸福を生み出す母のようなものである。
天は万物を人に与えないで、 働くことによって与えるものである。
今日というまさにその日のうちに働くべきであ る。
明日の支障は予測できない。

あなたがもしも人の家来となってその主人よりも怠 け者だと叱られたらこれに恥じて赤面しないことがあろうか。
今あなたは人の家来で はなく自分自身の主人である。
自らその怠け心を咎め、自ら恥じて赤面しなければな らない。

明治 6 年(1873 年)10 月 (原典:『丸善百年史(上巻)』P42-48/コーポレートガバナンス室訳)

 

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